グロテスクな一般化

身体や性についての戯画化された本質主義の問いの罠はあちこちに散りばめられている。たとえば「出産はハンディか」、「セックスは労働か」という問いがインプリシットに意味するのは「出産は(本質的に)ハンディか」、「セックスは(本質的に)労働か」というグロテスクな一般化を量産するだけだ。これらの問いに代わってジェンダーに必要なものは「出産はどのような条件の下で女にとってハンディになるか」「セックスはどのような文脈の元で労働となるか」という問いを立て替えることだ。それは裏返しにいえば、「どのような条件の元であれば、出産をハンディとせずにすむようになるか」「どのような文脈の元で、セックスは労働でなく愛のコミュニケーションとなるか」という問いを立てることでもある。

年始早々読んだ上野千鶴子の「構築主義とは何か」に気になる文章があったので記述してみた。抽象化はいけないって単純な話ではないわな〜。でもこれをもっと上手く言語化できるようになったら、もう少し思考のレベルが上がるんじゃないかと思う。