大事なことだと思うんです。だからいろんな人に見てもらって考えても

彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

長いですが、読んでいただけると嬉しいです。
先日、森家でミスターたちと議論した話。その一部に「FGM」(Female Genital Mutilationの略、日本語では「女性性器切除」)の話が出ました。


いわゆる「第三世界」において、女性の外性器(大陰唇の一部や陰核、小陰唇)の切除措置、または陰部封鎖を行うことです。わかりやすくいうと、女性が快楽を感じずに子供を生むことのみを目的とできるように、クリトリスの包皮の切除・陰部を糸で縫うことです。これをしないと、嫁にもらってもらえない=生活していけないわけで、そこには男性中心の思想もあるようですが、そこら辺に落ちているような汚い糸で縫合を行ったり、殺菌されていない刃物で切除を行ったりすることで命を落とす女性も多数いるそうです。


この慣習を先進工業地域の女性達が「野蛮だ!」と非難しています。これについてどう思うか?という議論でした。ただし、議論の内容はどうでも良いと思っています。自分はこの話を聞いて何か心につっかえていて、いつの日かそれをきちんと考えたいな、と思っていたのですが、上記の本にちょうどそのことについて書かれていたので、改めて考えさせられました。


この文章を読んでいる人はどう思いますか?「FGM」は野蛮だと思いますか??先進工業地域の女性がこれを批判しているのを当然だと思いますか??おそらく、ほとんどの人が上記の文章を読んで、第三世界の女性に同情をしたり、何とかしてこの野蛮な慣習を変えなければ!と思うと思います。変えなければいけないのは果たしてその慣習ですか??


実は、先進国の女性達は「FGM」を「野蛮な慣習だ!」と批判していますが、第三世界の人々はそんな彼らを批判しています。例を挙げると、「研究と発展のためのアフリカ女性連合」の代表を務めるマリー・アンジェリケ・サバネは「彼女たちのあの重要なときを・・・楽しみに待っている小さな少女に、どんな代わりのものをあげることができるのか」といって、女性の生殖器切断を保護する論文を発表しました。


読んでいるあなたはこのサバネによる批判を「文化的価値観の相違」と取るでしょうか??それは少し浅はかです。サバネは「FGMを批判されたこと」ではなく、「彼女達の伝統=アイデンティティを批判されたこと」に反発しているのではないかと考えるのです。彼らを野蛮だ!と批判するその主体はどこにあるのでしょうか??第三世界から多くのものを搾取しておいて、いまさら「FGM」だけを取り出して「野蛮だ!」という。その主体はどこでしょうか??第三世界の人間達の「主体性」は尊重されているのでしょうか?「先進国の女性→第三世界の女性」いつの間にやら一方的な矢印ができていないでしょうか??しかも問題はこれだけではありません。「フェミニズム」の問題もあります。


先進国の女性であれ、第三世界の女性であれ、女性であることには変わりはありません。つい最近まで先進国でも女性は男性に対して「弱い立場」でした。現在も男女は平等であるという風潮は広まっていますが、やはり、主体は「男性にある」といえます。例えば、性行為に関していうと、海外では避妊薬としてピルを使うケースがありますが、ピルは必ずしも100%避妊ができるわけではありません。妊娠した場合、どうなります?コンドームをつけて!という権利はあるかもしれませんが、例えば穴が開いていたとして妊娠してしまったらどうなります?
コンドームをしたから大丈夫!ピルを飲ませたから大丈夫!←主体は男性ではないでしょうか?妊娠してしまったとしたら身体的に明らかに特徴が出るのはどちらですか?それに対する世間の目は??


という具合に「男性主体」の世界においては、「女性はやはり弱い立場である」といえます。その「弱い立場」であるはずの女性が文化価値観の違う女性を批判する。←注目したいのはこの構図です。同じ「女性」というSEXを持ちながらもこの構図には「先進国女性の傲慢さ」が隠れてはいないでしょうか?男性に譲ることのできない主体性をもたれていた先進国の女性が自分達より「野蛮」で「劣っている」と考える。いつのまにやら、「主体」は先進国の女性が持っていることになってしまっている。その上、第三世界に対して何かができると思っている。非常に傲慢で自分勝手な「主体」です。


それとも、単なる素直な「同情」から先進国女性の考え方はきていると考えるのでしょうか?ジジュクの言葉にこうあります「犠牲者に同情を注ぐということは、まさにこのまなざしの与える耐えられないほどの圧力から逃れる手立てです。(中略)メディアに氾濫している「ボスニアで苦しむ人たちへの同情」といった言葉は、(中略)何より、同情は困っている隣人に対してほどよい距離感を保つための手段だということを示しています。(中略)言い換えれば、わたしたちの同情とは、まさにそれが、「心から」のものであるからこそ、同情することで、自分が好ましいと思えるような形の自分を見ることを前提としています。犠牲者達を見守る立場にいる自分の姿を見たいがために、犠牲者達が必要とされるのです。(中略)犠牲者という概念の普遍化には、二つの面が要約されています。一つは第三世界の犠牲者についてです。その土地の軍部指導者や狂信者や原理主義者の犠牲になっている人々に同情することで、<内>にある者(幸福と人権が約束された法と秩序の社会に受け入れられている者)と<外>にある者(わたしたちの町のホームレスから飢えに苦しむアフリカやアジアの人々)を隔てる現在の大分水嶺が存在するという、リベラル民主主義的な(誤った)見解が形成されます。」


自分はこの本を読んで、女性弁護に立ちたいとか、そういうつもりは全くありません。この本には思想的なところでガツンときました。実は、まだ読み終わっていません。とりあえず学ぶ部分が多すぎて早くブログに書きたかったんです。この本はもっと奥が深くてめちゃくちゃ面白いです。自分がここに書いた文章で1%も表現できていないと思います。理解はしているつもろでも自分の言葉で表現しようとすると、全然書けません。「言葉の壁に縛られています。」口惜しいです。自分が得たこの衝撃を伝えられないのは本当に口惜しいです。伝えられないで口惜しいと思いは久しぶりにしました。


でも本当にこの本の内容を全部消化したいです。この本を読んで感じたのは「逃げられない」ということです。こういう世界があって、それを忘却すること、ただ単に同情すること、安易な解決策を提示すること、その全てを犯罪的とも呼ぶほどにばっさり切り捨てています。筆者自身明確な解決策は提示できていません。自分もわからないです。でも、考えたいですし、これについていろんな人と議論したいです。(←これも非常に安易で盲目的なリベラル思考だなー)もう一つ、これを読んで気づいたのは「言葉の壁に縛られています。」ということです。上でも使いましたが、例えば「目の前の問題から目を背けてはいけない」この言葉は人によって全く意味が違ってくると思います。今の自分の中では非常に重たい言葉です。ただし、別の人にこの言葉だけを発しても、全く重みが違ってくるでしょう。どれだけ共有できるバックグラウンドを知っているのか、しかし、それも結局は言語で表現されるため、やはり私達は言語なしでは複雑な情報伝達はできないようです。言語以外のコミュニケーション方法を探すことで高度なコミュニケーションが達成できる!と以前書きましたが、今振り返ると非常に安直です。そんなに簡単なものではありません。


とまぁ、まだ途中なのに頭パンクしそうなくらい衝撃的です。本当にまだまだまだまだ伝えたいことが沢山あります。でももう4時半なので寝ます。また書きます!とりあえずおやすみなさいm(__)m


■今日気づいたこと
・人は基本的に認めてもらいたがる。(Del○勤務中のお客さんより学ぶ)
・・・フラッシュメモリ探しているお客さんで、「容量が2倍なのに価格あんまり変わらないね〜」と言われて、「そうですね〜、値段があんまり変わらないのであれば、容量大きいほうが良いですよね〜」と自分は言ったが、後でその客が同じことを店員に言っていて、店員さんが、「今はコストがそんなにかからないんですよー!」と言った。そうすると客は「へーそうなんだー!昔はさー」と話し出した。自分の場合はお客さんの話を途中でシャットダウンして自分の意見を言ってしまったが、店員は見事にお客さんの言葉に返して見せた。自分は知っているとか勘違いして先読みしないで、相手の言おうとしていることに素直に返そう。客は誰にでも話を聞いてもらいたいのではなくて、「自分の話に興味を持ってくれる人、それに対して肯定のリアクションを返してくれる人」を好むものである。


・久しぶりに120万くらい行った。何でこんなに売れたのか?お客さん多いのもあったけど、立て続けにお客さん来て、一つ一つクローズするたびに自信がどんどんついていったことが大きいと思う。特に最後の三台は全て同じような構成だったなので、三回も同じ説明をしたら、当然話し方も面白く魅力的に工夫できたのだと思う。でも大事なのは話し方じゃなくて、自信をどんどんつけていった自分の内面だと思う。対人関係においては目に見えるものが大事なんじゃなくて、目に見えるものを生み出している根本は何か?ってところが大事なんだよ。


・外国人のお客さんに何か反応を返してくれるかな?と思って「いらっしゃいませ!」と言ったら「コニチワ!」と言われた。これ実は結構あって、「何か反応を返してくれるかな(そのお客さんに対しての興味・関心)」っていうところがミソだと思う。他のお客さんに対してでもそうだけど。