エゴで第三世界を語ることは欺瞞か?

今日も京大で岡先生の授業を聴講して来ました。岡先生は毎回毎回自分に新しい価値観を提示してくれるので、授業に行くたびに刺激をされます。今はユースフ・イドリースというエジプトの作家を文献を批評した岡先生の論文を元に授業は進められています。今日はその話。


イドリースの作品、『名誉にまつわる出来事』。


エジプトのある村にファティマというとても純粋で美しい女の人がいます。みんなはファティマのことを美しい純粋な女として見ていますが、男は心の奥底でファティマを欲望の対象として見ていて、女の人も心の奥底では自分たちと同じ男に媚びる汚れた面があるのではないのかと思っています。ある時、ファティマは男に腕をつかまれ、悲鳴を上げます。それを聞いて集まってきた女たちは皆、その男にファティマがレイプをされたのだと思い、心の底で結局ファティマもそういう自分たちと同じただの女だったのか安堵します。しかし、ファティマは「自分はそんなことをされていない!手をつかまれただけだ!」と訴え続けます。しかし女たちはそれを受け入れません。それでもファティマが訴え続けるので、女たちはそれならばと、ファティマを産婆の元に連れて行き、みんなの見ている前で、処女がどうかの確認をします。ファティマは自らがレイプをされておらず、心も体も汚されていないことを証明するために、精神的な苦痛を感じながらも女たちの前で陰部をさらします。結局それでファティマの処女は証明され、女たちは良かった良かった!とみんなでファティマを励ますのですが、それからファティマは変わってしまい村のいかがわしい場所にも出入りをするようになって、結局他の女たちと同じようになってしまうという話です。


この話の中でファティマが実際にレイプされていないことは証明されましたが、大衆の前で陰部を晒さなければならなかったことは明らかに精神的レイプです。ファティマは自分の純粋さ=処女性を証明するためにそういうことをしなければならなかったわけですが、同時にそれは自分の陰部を曝け出すことが自分の身体を売り渡す行為につながってしまったわけです。ここからファティマのスクート(アラビア語で「落っこちてしまうことだったかな?」)が始まったわけです。


このショッキングな出来事を「名誉にまつわる出来事」という作品で描くことでイドリースはエジプト社会のいびつな構造を書き出しています。イドリースの他の作品も性に関して書いたものが多いのですが、そのすべてがエジプト社会のいびつな構造をすさまじい『強度』をもって表しています。


しかし、ここで問題なのは、イドリースの作品が、純粋なエジプト社会の女の痛みから描かれていないことです。彼は男ですが、イドリースにとっては、ファティマの処女性→純粋さの方が大事なわけで、それが奪われてしまった、なくしてしまった女の姿を作品でショッキングな出来事として描くことで、その作品の『強度』を創っています。純粋に女の人からの痛みから生まれていない。エジプト社会のいびつな構造を指摘するためには、『女』という生贄が必要だったわけです。


彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

上記の本でFGM(女性割礼)の話を読んで自分は迷いました。岡先生によって、第三世界の女性への同情、忘却、共感全てが厳しい批判をされていたから、だからこそ、問題構造を知らなくてはどうして良いかわからない、だからまず『知ろう』と思いました。でも、自分がFGMに興味を持ったのは、それが『ショッキングな出来事』だったからではないのだろうか?と思ったわけです。自分は第三世界の住人ではないし、ましてや『女』ではない、だから彼女たちが抱える痛みをわかることができない。では、自分は何をすることができるのでしょうか?


で、今書いてて思いたくないけど、うすうす思っていたのが、自分が興味を持ったのがFGMでも、その問題構造でもなく、その問題構造の認識の仕方のフレームワークではないかということです。そのフレームワークを自分の中に吸収することによって、新たな視点で物事を見れる。だから、勉強嫌いの俺がこんなに真剣に講義も受けるし、本も読むのだと。そうであればなんてエゴイスティックな考え方でしょう。でもそれを否定することは欺瞞なので、自分はそのような欲望があると認めざるをえません。


では自分はこれからもそのフレームワークを学ぶために、もっと深くジェンダー第三世界について学んでいくのでしょうか?


またこれについては答えが出たら書きます。