『性』の持つ衝撃の強さとか、小説の読み方とかいろいろ

例えば、エジプト第三世代の作家(文芸批評を行なうナギーブ・マフフーズは第二世代)であるユースフ・イドリースの『肉の家』、『ハラーム』、『名誉にまつわる出来事』。どれもイスラームにおけるハラーム(禁忌)、主に姦淫をテーマに扱った小説です。

これらの小説(肉の家はちょっと違うけど)でいつも弱い立場として書かれるのは『女』しかも非常に弱い立場にいる『女』(季節労働者とかスラム街の女とか)です。彼女らはいつも権威ある立場の『男』(弁護士であったり地主の息子であったり)によってレイプされ、それがイスラームの教えに反することだと苦悩するのです。権威ある立場の男達は姦淫が罪であるということを知りつつも、簡単にその罪を犯します。彼らの論理では、自らの犯した姦淫が暴かれなければ罪にはならないということになっているのです。これに対して『女』はレイプされながらも抗えなかった自分を認め、苦悩するのです。それが第三者に知れていないにもかかわらず。

ちなみに宗教には「半業」と「万業」という考え方があり、「半業」は心の中で「アレを盗みたい!」とか「あの女をレイプしたい!」と思うことで、それは心の中だけで完結しているにもかかわらず、思った時点で罪とみなす考え方です。主にキリスト教がこういう考え方をします。対して、「万業」は実際に手を下した時点で罪となるという考え方で、これはイスラム教や仏教の考え方です。(仏教でよい例は芥川の蜘蛛の糸ね。)

イドリースの小説では、季節労働者やスラム街の住人である非常に身分の低い立場である『女』と自らの欲望に忠実でイスラームの教えに反しても、それが暴かれない限り罪だと思わない権威のある『男』が非常に鮮やかなコントラストをもって描かれています。これはレイ・チョウの書く「プリミティヴへの情熱」で言われている「プリミティヴを批判するためには、よりプリミティヴなものを使うという通念がある」という仕組みをうまく利用しています。だからこそ、イドリースの小説はエジプト社会に衝撃を与え、今の自分にも衝撃を与えたのでしょう。

イドリースはエジプト社会の歪な構造を描き出すためにこのような書き方をしたのでしょう。でも、だからといって、イドリースの小説で描かれているものがエジプトの社会そのままというわけではありません。というのは、イドリースの小説でもっとも有名な『ハラーム』という作品はアメリカの作家であるナサニエル・ホーソーンが19世紀に書いた小説『緋文字』の翻案小説だと岡先生が指摘している通り、『緋文字』と『ハラーム』は全く同じ様な構造で書かれています。つまり、ハラームの中で描かれているいびつな構造は19世紀のアメリカにも存在していたということなのです。

「小説は事実より真実を描いている」こう最初に言ったのは誰かわかりませんが、なるほど、その通りだと感じます。イドリースの小説は実際にエジプト社会そのままではないかもしれないですが、限りなく、現在のエジプト社会に存在する構造を描き出しているといえます。しかし、その構造は19世紀のアメリカにも存在していた。人間はどこの地域にいても同じような道筋をたどってきているのでしょうか。

まぁまぁ、で、小説を読むときには、小説で描かれていること実際にあるものとして考えて事実確定的に読まないで、小説を読むことで浮かび上がっているもの、現実社会を描き出している真実として認識して、同時にいろいろな事実とその関係性が想起されるような、そんな遂行的な読み方をできるようになりたいと思います。