捉える枠としての『ポストコロニアリズム』・『ジェンダー』の凄さ

北へ遷りゆく時/ゼーンの結婚 現代アラブ小説全集 (8)

北へ遷りゆく時/ゼーンの結婚 現代アラブ小説全集 (8)

アッ・タイーブ・サーレフの『北へ還りゆく時』という本がある。この本は語り手に、ムスタファー・サイードがイギリスでの過去を告白するという形で読者に伝えられる。

ムスタファーはイギリスの占領下のスーダンで学校に通い、優秀な成績をおさめる。そしてカイロで勉強した後にロンドンに赴き、経済学を学ぶ彼はここでも優秀な成績をおさめ、24歳の若さで大学の経済学の講師に選ばれるほどであった。

しかし、彼には裏の側面がある。彼は次々とロンドンの女性を誘惑し、性的関係を持つのである。そして、彼と性的関係をもった女性は2人が自殺し、1人がやがて癌で死んでしまう。

しかし、自殺した女性の親はサイードを責めない。むしろ、娘に問題があったとして、サイードを庇うような態度をとる。

ここで浮かんでくる疑問は何故、自殺した娘の親はサイードを糾弾しなかったかということである。しかし、その前に、植民地の”黒人”であるサイードと支配する側の”白人”の女が何故性的な関係を結べたのだろうか?


その前に、”性的関係をむすぶ”ということについて考えてみたい。当時の家父長制の色濃く残った社会では、性的関係とは、男が女を性的征服するとも言える。”征服”とは通常は”領土”に対して使うものである。たとえば、領土を征服するという意味で使うのが本来の正しい使い方である。つまり、”征服”とは政治的、軍事的なメタファーであると言える。女性の身体とは男性によって”征服”される領土のメタファーであると言える。これは国を”母国”、”母なる大地”と言ったり、人間が誰も行ったことのない未開の地を処女地と言ったり、戦時中の軍事的な征服は女性への暴行とイコールであったことを示す戦時性暴力という言葉からもわかる。男たちは領土=女を守るために戦い、相手の国を征服するということは、相手国の女を蹂躙するということであった。


祖国が女性なら、祖国を守るのは男、戦うのは男であり、耕すのも男である。つまり、当時は国民というものが男性化されていた社会だったといえる。


イードにとって、白人の女と性的関係を持つということはメタフィジカルな意味での”征服”であった。しかし、何故サイードは白人の女と性的関係を結べたのであろうか?何故女たちはサイードに惹かれたのだろうか?女たちはサイードが戦略的には劣った国家の人間であると知っていたのに。。。


それは、サイードが、白人の女が夢に描くようなオリエントの世界を自らの自宅に作り出して、千夜一夜物語アラビアンナイト)を耳元でささやいたからだろうか?女たちはそれに魅了されたのだろうか??しかし、それにしても、何故女はその部屋まで付いてきてしまったのだろうか??


それは、オリエンタリズムとは劣っている存在を必ずしも否定しないということである。確かに、当時は、白人の女は黒人の男を蔑んでいた目で見ていたはずである。劣った存在として認識していたはずである。しかし、同時に劣った存在が持っている世界に興味を惹かれてもいたのである。それも極めて性的な意味合いにおいて。ハーレムを誰しも覗いてみたいという好奇心はあるだろう。女たちは野蛮で暴力的だけれども、同時に官能的なエキゾチックな魅力に惹かれるところもあったに違いない。


では、何故女たちは自殺したのか?それはサイードが本気でなく、遊び、あるいは自分たちの大地を蹂躙した白人に対しての復讐から、そういった性的関係を結んだことがわかったからだろうか?でも、それだけで自殺をするだろうか??女達が自殺したのには、もっと別の意味があったに違いない。


黒人の男に白人の女が惹かれるという事は、白人の女は、価値的にプリミティブなものに惹かれていたということである。両者が惹かれあっていたならまだしも、黒人の男に、いわば騙されて性的関係を結んでしまったということは、獣と等しい存在に言い様に犯されたということである。それがイギリスという帝国主義的な国家で持っている意味合いを考えたときに、他社に漏れるのを恐れ、自殺してしまったのではないだろうか。


自殺した女の親達が、サイードを責めずに、むしろ女達の方に問題があるという態度をとった理由もそれで明らかになる。サイードと娘の関係を認めることは、娘が獣に犯されたことを認める結果になる。だから、サイードを責めなかったのではないか。


そのような復讐も、サイードと結婚した非常に近代的な女性(人前で堂々とセックスをしたり、家父長制の社会を認めず、結婚しても男と浮気ばかりをする女性)には通用せず、最終的には、その女性を殺してしまい、サイードの復讐は未達成として完結する。


この『北へ還りゆく時』はオリエンタリズム以前に書かれた文学であるが、非常に様々な読み解き方が可能であり、ポストコロニアリズムジェンダーなどの近代的な視点を持ってしてのみ、より深い読み方が可能になる。両視点の凄さをまざまざと見せ付けられた。多分、そのような視点を持たずにこの本を読んでしまったら、きっと、一遍の”ただの”深い意味があるであろう本に終わってしまっていただだろう。


岡真理先生の『彼女の「正しい」名前とは何か』にはじまって、京大で比較動態文化論を聴講するようになって、物事を捉える枠を多様に持つことの面白さ、重要さを痛感した半年であった。で、やっぱり岡真理先生は凄い!!もうこれは本当にそう思う。自分は人を尊敬するっていうことがまったくできない人だけれども、この先生だけは本当に尊敬している。生徒のこともいろいろ気にかけてくれるし、叱れるべきところはきちんと叱れるし、すっごい人間味もある。何かすべてにおいて、こうなっていたいっていう自分の将来の理想とするモデルという感じがする。先生と出会って学んだことをいろんな分野に応用して、もっともっと自分論を語れるようになろう!!(あー抽象論がもどかしい泣)