感動。

hikosanhikosan2005-07-12


「あのさ、とてもガッツンときたことがあって、どうしても心に留めておきたいことなんだ。だからメモっておきます。」


「人に感動を与えられている??」
↑これだけじゃ多分わからないと思うけど、きっと深いよ。この意味。


彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

図書館でいつもの勉強と読書。とりあえずラーメン食べたくなったのであんこを呼び出し、河原町をぶらぶらしてたら浴衣のカーネルに遭遇。しかもスイカを持っているとはなかなかこニクイ演出だね〜と。さびしがりやの自分としては家に連れて帰りたかったです。

■今日嬉しかったこと
+今日は就職活動で知り合った友達と今度また語る機会をつくることに成功しました。しかも、その場に別の企業で知り合った子も来るということで、なかなか面白いことになりそうです。兵庫、奈良、京都と全員バラバラなので、とりあえず梅田で集まるということで。有意義な語りの場になると良いです。


+今まで祇園祭とは全く縁なしでしたが、ところがどっこい今年は違う!!祇園祭りの2日間は埋まりそうです。あと1日、これを埋めればパーフェクト!誰と一緒に行くのか?これが重要です。。。


最近の自分の思考は『彼女の「正しい」名前とは何か』を中心にまわっています。自分は「FGM」の「野蛮さ」という点のみに焦点を当ててしまい、結局そういう意味では先進国の女性と何ら変わることはないのでしょう。むしろ、当事者意識がない日本人の、しかも『男』の単なる好奇心の目でこの本を読み解こうとしているのであれば、そんな自分にとってこの本は重すぎます。しかし、読んでいくにつれて、この本がどこか「自分の遠い世界」で行われていることではないのかとも思ってしまうわけです。この時点ですでに『自分の世界』と『相手の世界』と無意識のうちに線引きを行ってしまっている完全に利己的で都合の良い思考プロセスが無意識のうちに行われているのですが、自分このブログでもここのところずっとこの本について書いていますが、結局自分は何がしたいのでしょうか?この本にすごい共感したのでそれを読んでいる人に伝えたい?筆者の視点の豊かさを自分の中で消化しきるために自分の意見をまとめているだけ?おそらく両方とも当たりでしょう。しかし、この本を読んでその自分の行動に関しても疑問を感じました。


「共感」とは何でしょう?一体自分は何に共感したのでしょうか?「FGM」を安易に野蛮だと批判する先進国女性に?そんな先進国女性を批判する第三世界の女性に?ウォーカーに?サアダーウィーに?うまく言葉で言い表せません。そもそも自分は、客観的に見て、当事者がいない国、日本のしかも男というポジションであって、そんな自分がたまたま一冊の本を手に取って、それが自分の日常とかけ離れている現実、思想を描いていたためガッツンきているわけで、そんな風に客観的に自分を見つめた場合に、客観的には全く「共感」できる根拠はない。自分は「共感」は絶対的にできるポジションには置かれていない状態になるわけで、そもそもでは「共感」とは何?という話になるわけです。


この本に「共感」に関しても面白い記述がありました。「当事者として同じで出来事を体験していないものが、耐え難いような出来事を体験した他者のその苦痛に共感するとはどういうことなのであろうか?他者の痛みを分有するとは、他者が味わっているまさにその同じ苦痛を「共有」するという行為なのだろうか?それは原理的には不可能であるが、唯一、苦しむ者に対する想像的な同一化によって可能になる。しかし、それはあくまでも想像的なものである。そして、苦しむ者に対する「共感」を促そうとして、その同一化を容易にするような言説戦略が取られる時、−出来事の暴力性を印象付けるために被害者の無抵抗さが協調されたりするのはその一例だが−被害者は、被害者の苦痛に同一化しようとする者たちのイメージに合致するように構成されていく。そして、そのようなメッセージに合わないような現実が暴露されると、えてして被害者に対する共感が裏切られたように感じられるものだが、それは、このような「共感」の根拠が実は想像によるものにすぎなかったことを物語っていよう。さらに同一化を容易にするために私達のー私と被害者のー同一性が強調される。同じ女性、同じ人間、同じ○○の犠牲者・・・だがそのような「共感」は本質主義的な同一性を前提とすることで、そのような同一性を共有しない他者を「共感」の可能性から排除することになるだろう。(さらに、私/たちと彼女たちとの間に確かに存在するもろもろの違いをおおいに隠してしまうことにもなるだろう。)そして、他者の苦痛に関する「共感」が、このような苦しむ者に対する想像的同一化として醸成されるとき、想像の「共感」共同体であるネイションに対する同一化の欲望は、一体どのようにして否定されうるのだろうか?
私は彼女達ではない。だとすれば、彼女達ではない私の、彼女達の苦痛に対する「共感」とは、私自身の他者性において求められなければならないではないか。彼女達に同一化することで想像的に共有される苦痛ではない。私自身の苦痛の固有性において追求されなければならないのではないか。彼女の苦しみを苦しむのではなく、私自身の苦しみを苦しんで始めて、一つの出来事が彼女と私との間で分有される、その可能性が生まれるのではないか。」


本を読んで自分の中に描いた想像的な世界、そこに安易に「共感」することを考えさせられた文章です。


■今気づいたこと
あんこと言葉の「定義」において話していたが、どうも話しに食い違いが。これはあんこが「言説的な意味」での「定義」を主張していたことに対して、自分の中では「定義」を多くの人の経験談を交えて具体化される言葉では一言で表現できないイメージの言葉として主張していたからだと思う。たとえば、「議論」という言葉の定義は「それぞれの考えを述べて論じあうこと。また、その内容。」(goo国語辞典より)とあるが、これは単に言葉の意味であって、自分の中での議論は言葉で表現すると、「一つの話に対して質問を加えていくことによって話の深みを増していくこと」である。具体例が出れば一番良いのだが、今は思いつかない。つまり言いたいのは人によって「議論」のイメージは違うわけで、各々の具体例と「議論」という抽象を行き来することによってのみ、明確(と呼んでよいのかわからないが)or深みのある「共通イメージ」をつくることができるのだと思う。文を書くことを職としている人が多くの人にイメージを沸かせやすいのはイメージを表現する手段としての「言葉の表現方法」に富んでいるわけだからであって、「表現する言葉」を多く知っているわけだからではないと思う。言語の言説的な意味に拘泥すること。それは正確にものを伝える状況(たとえばビジネスでは)では重要かもしれないが、言語以外のイメージによって伝える手段は人間臭いやりとりになればなるほど重要になってくるものだと思う。


自分の中で書きたいこと、伝えたいこと、整理したいこと、そんなことが沢山ありすぎて、毎日がとても楽しい。でもそれが頭の中だけで終わらないように、最終的には「行動」に結び付けられる人間では常にありたいと考えている。