これも。

hikosanhikosan2005-07-19


差異の政治学

差異の政治学

や○に借りたこの本、テスト期間中にもかかわらず、自分は社労士の勉強と本しか読んでいない。ガツンきた!!今までにない新しい視点を提供してくれる!帰りに自転車をこぎながらニヤニヤしていた!!


この本に書かれている社会科学の定義が面白い!どんなんか!?社会科学は「経験知」であるという。では「経験の発生する場はどこか?」それは自己と自己以外のものとのあいだのインタラクションの場である。したがって「経験知」とは常に「臨床の知clinical knowledge」にほかならない!社会科学の経験性と実定性とは、この「臨床の知」に裏付けられている。「臨床の知」は「自己との対話」のような独我論的な知でもないし、誰が見てもそれと指定できるような「客観的な知」でもない。むしろ自己と他者との相互干渉の中から生まれる「対話的な知」である。自己と他者との場の共有から生まれる「共同制作」の産物である。


ここでいう他者とは単に情報提供者ではなく、単に情報を提供する「機械的な語り手」ではないのである。


人類学を[「野外の知 field science」としてその方法論を練り上げた川喜多次郎の手法をマーケティングの分野に取り入れて独自のプログラムを開発した小野貴邦は、自分のカリキュラムを「聞く力の訓練」と呼んだ。自己表現など後回しでよい。語るべき情報を持たない人々にとって自己表現は無意味である。それ以前に自分でないものへの関心、他者への配慮、「聞くこと」の能力がおざなりにされているのではないのか?小野はそう考えた。川喜多の方法は梅棹忠夫な京都学派の人々によって洗練され『知的生産の技術』を生んだ。


私達が普通に使う「情報」に対しても興味深い定義がなされている。「情報」とはノイズから生まれる。ノイズをはさんでその両極には、一方で自分にとって「情報」にさえならない情報、他方に自分にとって疎遠なあまり「認知的不協和 cognitive dissonance」(フェスティンガー)のせいで情報として引っかからない領域とがある。「情報」とはまったき自明性とまったき異質性の中間領域、そのファジーゾーンに初めて発生する「意味あるもの」の集合体である。


同じ「現実」に向き合っても、観察者によって「情報」生産は質・量ともに異なる。こう書いたからといって、「情報」には秘義的な性格は何もない。人は訓練によって「情報」の量を増やすことができる。一つは、自明性の領域を懐疑と自己批判によって縮小することによって、もう一つは異質性の領域に対して自己の受容性を拡大することによって。


別な言い方をすると、「情報」の価値とは自分にとって自明なものとそうでないものと落差である。したがって自明性の世界に生きることで「複雑性の縮域」(ルーマン)を図っている人々には当然のことながら「情報」は発生しない。


自明性の領域から抜け出るにはどうしたら良いのか?自問自答からは答えは出てこないのである。自分にとって未知なもの、ノイズとなるものの中にしか新しい「情報」はない。「臨床の知」の中には「当事者のカテゴリー native category」が含まれている。「当事者のカテゴリー」は「観察者によるカテゴリー化」を頑強に拒むが、だからといって全くエイリアンなものでもない。「自明性のカテゴリー」の外側にあるこの「当事者のカテゴリー」を聞く力を持てるか持てないかが、観察者に問われている。「当事者のカテゴリー」は「聞かれること」を通じていわば、「共同の作品」となる。それは観察者だけによっても、クライアントだけによっても生産されることができない、両者の相互交渉の産物である。


■具体例
精神科医斉藤学摂食障害の患者に深く関わってきたが、あるとき、摂食障害と幼児期の性的虐待とが偶然とはいえない蓋然性で結びついていることを「発見」する。彼は幼児虐待の問題化、さらに幼児(非常にしばしば女児)の性的虐待の問題化という動きの中で、それまで別々の事柄に見えていた二つの現象の間に関連を見出し、摂食障害の患者達に性的虐待のトラウマについて尋ねるのだが、その中の1人の患者の発言は彼をもっと驚かす。「そのことは10年も前に先生に言ったでしょ。」驚く彼に患者は追い討ちをかける「でも、先生は取り合ってくれなかった。」彼は聞いていたけれども聞こえていなかったのだ。斉藤はそのとき「私には聞く準備が全くできていなかった」と述べている。斉藤のこの経験は意味のある「情報」がいかにして成立するかの現場について教える。


自分の中で覚えておきたいことをそのまま書き出してみた。この本はまさに自分が今していることの意味を構造化してくれた。今まで自分の価値観や考え方を疑ったことはなかったが、そのせいで逃してしまった重要なものも沢山ある。だったら、あの時どういうスタンスでいれば、自分はもっと他の自分になりえたのか?この問に答えることは自分自身の成長のために絶対必要である。自分自身に問うことのできる問がまだまだ少なすぎるし、外部の情報もまだまだ見ていないものが沢山ある。自分はまだまだである。実をいうと、この本だってまだ消化しきってないのである。何故消化できないのか?自分の経験知が少ないからだろうかね〜??(>_<)